
山口県下関市上新地町に建っている「櫻山神社(さくらやまじんじゃ)」です。JR下関駅から徒歩約23分。金毘羅宮からだと21分位です(googleマップ経路情報より)
北側から行った場合、入口の石鳥居の少し手前で曲がるように案内されます。そこから神社に入れるかは不明です。曲がるように指示される所からは、鳥居が見えるか?見えないか?ギリギリ位の所ですが、もう少し先(南側)、線路と道路に挟まれた道沿いに入り口の鳥居があります。
3日目(2月18日)に金毘羅宮の次に参拝する予定でしたが、1日目に時間が余ったので、実際には2月16日に参拝しました。
道路沿いに「櫻山招魂社」との社号標と扁額は無いけど注連縄が絞められた石鳥居がたっていました。鳥居からは、そこまで急ではないですが、長い石段が続いていました。石段や参道沿いには「奇兵隊」「八幡隊」「松陰吉田先生」「高杉晋作」と言った幕末から明治維新頃に活躍された組織名、人物名が書かれた幟がたっていました。
大きくは林に囲まれてますが、開けた範囲が広いのと、見た限りでは境内社らしきものは見当たらず、社殿以外には石碑が立ってる位なので、境内が、かなり広い神社に感じました。神社の御由緒から考えると、各石碑が境内社になっているような気がします。
拝殿は、注連縄に太い鈴緒が一本、桜の花びらが描かれた薄い紫の幕が飾られていました。表側には扁額は無かったです。扉が半分開いていたので中を覗いてみると金文字で「櫻山神社」と描かれた扁額が掛かっていました。
社殿の後ろ側に石鳥居があり櫻山招魂場の入り口になっていました。門がありましたが開かれていました。正面の一番前に、他の招魂碑より一回り大きな石が吉田松陰の招魂碑のようです。
何故か、参道の幟も、櫻山招魂場内の招魂碑にも「松陰吉田先生」と記されていました。他の方々は普通に表記されていたのに、何故、吉田松陰だけ姓名を逆に表記したのか? 深い意味があるのか? 等、ちょっと調べてみたら、本名が「吉田 寅次郎」で「松陰」というのは、号と言われる姓名とは別の呼び名、アダ名みたいなもののようです。カッコ付け、しゃれた感じを出す為などで、先に号が来て次に姓名が来るような使い方をするからのようです。
境内に櫻山神社の御由緒等の案内板はありませんでした。実質的には櫻山招魂場に祀られている吉田松陰、高杉晋作等、幕末の志士の神霊「三九一柱」が御祭神なので、櫻山招魂場の案内板が櫻山神社の御由緒でいいのかもしれません。
公式サイトがありましたので、ご興味がおありでしたら。
櫻山神社公式サイト
櫻山招魂場は、奇兵隊の嘆願により、元治元年(1864) 5月に尊皇攘夷に倒れた隊士らを身分の区別なく慰霊する施設として創設され、翌年の慶応元年8月に招魂祭が挙行された。のちに全国に設けられる招魂社の先がけであり、幕末維新における奇兵隊、ひいては長州藩の思想理念を象徴する史跡である。
現在の招魂場には、吉田松陰をはじめ391基の招魂碑が整然と立ち並ぶ。その初期の姿は、招魂碑が社殿をコの字状に囲む形態であったが、明治40年代前半には神社拝殿裏に整然と集約配置された。その後も数度の改変を経て今に至っており、現在の配置形態からは、史料や石碑の色合いにより一つ前の配置形態 (昭和34年) を読み解く ことができる。また、吉田松陰の碑は戦前のある時点で、他と区別すべく一段高く最前列中央に据えられ、その左右には松下村塾四天王と称される高杉晋作、久坂玄瑞、入 江九一、吉田稔麿が配され、吉田松陰に対する当時の時代背景が映し出される。
櫻山招魂場は、幕末から近代にかけての戦死者の慰霊・追悼・顕彰のあり方などを明らかにするうえでも、大きな意味を持つ。
櫻山招魂場前の案内板より
石段登って二の鳥居をくぐって右側に宮司さん宅(社務所・授与所)がありました。












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