
山口県下関市伊崎町に建っている「伊崎厳島神社(いざきいつくしまじんじゃ)」です。JR下関駅から徒歩約12分。上新地町の厳島神社からだと8分位です(googleマップ経路情報より)
上新地町の厳島神社(北側)からgoogleマップナビで行くと、駐車場の横から右に曲がって山の方に案内されます。ちょっと曲がりくねりながら、坂道石段を登って行き、鈴ケ森稲荷神社の社殿前に繋がっていました。
伊崎厳島神社と鈴ヶ森稲荷神社の社殿自体は隣同士に立っていましたが、それぞれの別々に鳥居・参道・石段がありました。案内板を読んでみると鈴ヶ森稲荷神社は、「1186年に厳島神社境内末社として現在の茶臼山に御勧請」となっているので、鈴ヶ森稲荷神社が伊崎厳島神社の末社のようです。ですが、伊崎厳島神社の建立が1741年になっていて、ん~~~(?_?) 鈴ヶ森稲荷大明神と言う名前になったのも1738年のようで、伊崎厳島神社の建立より早い(^_^;)
鈴ヶ森稲荷神社の拝殿前のお賽銭箱の上に書置きの御朱印が置かれていました。厳島神社と鈴ヶ森稲荷神社の御朱印が一枚の紙に書かれていました。
伊崎厳島神社
御祭神 : 市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)
多紀理比売命(たぎりひめのみこと)
多岐都比売命(たきつひめのみこと)
寛保元年(一七四一)九月吉曜日の棟札 (中略)
其れ当社の本縁を尋ね奉れば、当に時五百余年の昔、源氏・平家火乱の折、官軍いくさに負け、 京都没落して西海に浮かび、船中祈誓の為に芸州厳島大明神を兵船に勧請し奉る。讃州八嶋に寄 り、長州段の浦(現・下関市壇の浦)に至り合戦に負けて軍破れる。密かにこの神体を当浦の磯岩に奉り、而して逃げ出す。 時に文治二年(一一八六)の事なり。
浦の翁、海上に一神の祠あるを見るや、金光貫重かつ異香既に近辺に満ちて神託して曰く「厳島也」と。
衆人之を異とし、小社を構えその中に請安す。
境内の案内板より



社殿は南を向いて建っていました。社殿は朱色で前面には細めの注連縄に紙垂(しで)と鈴緒、お賽銭箱のシンプルなつくりでした。扉は半開き状態で、中を見ると金文字の「厳嶋神社」の扁額と金ぴかな御神輿が置かれていました。(御朱印、鳥居の扁額、案内板では「島」でしたが、社殿内の扁額の文字だけは「嶋」でした。余り拘らなくても良いのかも(^^;)?)
鈴ヶ森稲荷神社側の参道から入ると、鈴ヶ森稲荷神社の社殿のが大きいし、伊崎厳島神社の社殿は横を向いてるので、境内社かと思いましたが、実際には逆でした(^^;)
鈴ヶ森稲荷神社
御祭神 : 宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)又は倉稲魂神とも書く。
寿永の昔、畏くも安徳天皇西海に行幸し給いまして、平家は小門海峡のほとり王城山に立て籠られしとき祭祀せられしを、武運拙く壇之浦の一戦に儚くも急流の花と散失せられました。
その翌年の文治二年(一一八六) 十月十七日厳島神社境内末社として、現在の茶臼山に御勧請 申し上げ奉斎せるものなり。
鈴鹿森稲荷大明神の儀は、元文二年(一七三七) 丙辰(ひのえたつ) 九月十七日、西細江町の小倉屋長兵衛に乗り移り拾い、五つの外の難病を真の心忘れず願い奉り侯えば平癒させ給う。
それより諸人信心いたし十月二十七日より稲荷堂建立を思い立ち、お役人様へ御願い申し上げれば御免 (御許し)の程。
翌年正月より祈禱いたし四月までに建立成就仕り、この時より鈴ケ森稲荷大明神といわれ拾うなり。
境内の案内板より
















厳島神社の社殿よりも大きく立派な社殿です。社殿前に小さ目な狛犬が1対。前足玉乗りタイプのようですが、相当古いのか?変色していて良く分からない状態でした。社殿の表の扁額は「鈴ヶ森平稲荷大明神」となっていました。「一」「八」「十」を縦に並べたような文字なので「平」と思うのですが、何故ここだけ「平」の文字が入るのか?不思議です
拝殿の右側に「鈴ヶ森稲荷神社」と書かれた扁額の赤鳥居があり奥の方の境内社の参道になっていました。赤い小さな祠で赤鳥居と祠には「稲荷大明神」との扁額がありました。
同じ名前と思われる神社が隣り合って建っているのも不思議ですが、もしかしたら、小さいお社の方は境内社で無く、本殿的な存在なのかも?(勝手な憶測です(^^;))
社殿の裏側の狭い場所に注連縄と数段の石段の先、正面にお尻を上げたタイプの吽型の狛犬だけが鎮座、右側に神棚みたいなのが有りそうでしたが、狭くてよく見えませんでした。
Φ ポケストップがあります・・・・ 厳島神社 鳥居、鈴ヶ森稲荷神社 拝殿
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