
山口県下関市綾羅木本町に建っている「中山神社(なかやまじんじゃ)」です。JR綾羅木駅から徒歩約13分。綾羅木郷遺跡(下関市立考古博物館)からだと19分位です(googleマップ経路情報より)
googleマップナビだと、表参道の入り口を通り過ぎて脇参道の入り口の方に案内されます。表参道の前を通るので分かると思います。googleマップナビ通りでも問題無く神社には入れます。
ちょっと歪な十字路みたいな場所に石鳥居があり、神門(天松門)、拝殿とまっすぐに参道が続いていました。石鳥居から少し左側先に、脇参道の入り口みたいな所にも石鳥居が立っていて、神門をくぐった先辺りに繋がっていました。見落とした可能性はありますが、狛犬はいなかったようです。石段は、社殿前の数段だけの平たい場所にありました。
中山神社は、幕末の動乱の中で長州に逃げて来たが、後に暗殺された中山忠光と言う人物を祀っている神社だそうです。明治天皇の叔父にあたる方です。
御祭神
左殿 : 明治天皇
正殿 : 中山忠光朝臣命
右殿 : 天照皇大神
中山忠光朝臣命は、弘化二年四月十三日従一位大勲位中山忠能の五男に生まれ、明治天皇の御生母中山一位局は姉君であり、従って忠光朝臣命は明治天皇の叔父にあたる。
忠光朝臣命は忠義の気質に富み、皇室の式徴を嘆き武門の専横をいきどおること一層熾烈であった。文久三年八月天忠組の主将として大和義挙により明治維新の鴻業の端緒をつくられたが、幕府軍の為に敗走して下関に足を止め、勤王の志士と交り大いに活躍中、元治元年十一月八日夜豊北町田耕字長瀬に於て俗論党の兇手に倒れ、悲惨な最期を遂げられた。兇徒は尊骸を其の夜の内に約四十キロ離れた、当神社松林まで運び密かに埋葬した、後に此を騎兵隊が探知して当初木の墓標を建てた。慶応元年十一月豊浦藩は墳墓の上に社殿を造営し英霊を祀ったのが当神社の創立である。
その後、忠光朝臣命の精神は多くの勤王の志士を奮い立たせ明治維新の大業は遂行されたのである。
墳墓は社殿右側の丘に有り、旧満州国皇弟一族を祀る愛新覚羅社と宝物殿は左側に有る。
社殿エリアの少し手前、参道の右側に社務所があり、大きな字で「御朱印受付」と書かれた看板が出てるのですぐに分かります。「中山神社」と「愛新覚羅社」の2種類がありました。












表参道の石鳥居は「中山神社」と彫られた扁額を掲げ、同じく「中山神社」と彫られた社号標と共に交差点の角に立っていました。
石鳥居の先には四脚門の神門で、手前の柱の所には「笑門」と書かれた小さな注連縄が飾られ、その後ろには金縁で、金文字で「天松門」と彫られた扁額を掲げていました。
拝殿の前には少し間隔を置いて3つの鈴と3本の鈴緒がありました。金文字で「中山神社」と書かれた扁額を掲げ、前部前面には細いですが長い注連縄が掛けられていました。拝殿と繋がって左前側には参拝社者控所、右前側にも何かの建物がたっていて、「コ」の字のへこんだ場所で参拝するようになっていました。
愛新覚羅社
御祭神 : 愛新覚羅 浩命、愛新覚羅 溥傑命、愛新覺羅 慧生命
愛新覚羅家は中国大陸清朝の直系にて溥傑命は清朝最後の皇帝宣統帝(後に満州国皇帝)となられた溥儀皇帝の弟君であります。
溥傑命は日本の陸軍士官学校を恩賜の軍刀を授けられ、又陸軍大学をも卒業された文武両道に優れたお方でありました。戦後は中華人民共和国全国人民代表大会常任委員及び全国政治協商会議常任委員として中日国交回復及び両国友好に尽力されました。
浩命は公家の中でも名門の嵯峨侯爵家の長女として誕生され日本国と満州国とを結ぶ親善結婚として溥傑命に嫁がれたのであります。 しかし戦後は満州国の崩壊、逃避行、文革の嵐と様々な経過を辿られ、まさに昭和史いや世界史を一気に走り抜けたお方でありました。
慧生命は溥傑命と浩命の長女として誕生され名前は溥傑命が、お付けになられました。学生時代中日両国の架け橋として自ら中国語を学び、周恩来首相に直接父親と一緒に暮らしたいと訴えた手紙を出され、そのことが溥傑命の特赦へつながったのであります。しかし運命の成せる業か天城山にて不慮の事故に遭遇されたのでありました。
以上当社は愛新覚羅家三柱を青松不断の地に奉祀し大陸に向い中日 両国の友好を永遠に念じつつ御霊は安く穏いに鎮り給える。
愛新覚羅社の右側の由来記より






拝殿からちょっと離れた左前辺り、宝物殿の前辺りにたっていました。「愛新覚羅社」って意味が分からなかったのですが、清王朝ラストエンペラーの溥儀の弟・溥傑命の「愛新覚羅」と言う苗字のようです。溥傑命、日本の公家・嵯峨家から嫁いだ浩命、娘の溥傑命の三柱を祀っているそうです。
祖霊社





本殿の左側辺りにたっていました。豊臣家の家紋・五七桐の紋に「祖霊社」と彫られた石柱、屋根と柱だけの建物(神楽殿?)の奥に木造のお宮がたっていました。案内板等はありませんでした。説明はありませんでしたが、何故、五七桐の紋があるのか? 関ヶ原から明治維新までの歴史を物語っているのかも。
その他 境内の風景










社殿の右奥辺りから少し登った場所に「藤原忠光卿 神霊」と彫られた墓石がたてられていました。中山忠光と言うお方は、明治天皇の叔父にあたる人で、幕末の動乱で長州藩に逃れて来ていたが、その後に暗殺されたようです。位の高い人のお墓がこんな場所にある事を隠すために、「中山」では無く「藤原」の名前でお墓を作ったそうです(諸説あるようです)
拝殿の左側の先に宝物殿がありました。入場自由でした。中には御神輿や十二単の着物、掛け軸の書等、沢山の展示物がありました。入館料は無料でしたが、内部は撮影禁止になっていたので写真はありません。
御朱印をお願いして社務所前で待っていると、遠くからニワトリの声が聞こえて来ました。鳴き声が段々と近づいて来てる感じだったので声のする方を見ると、社殿の裏の方からニワトリの群れが散歩でもしてるように歩いて来てました。ニワトリ達だけで、人が居てもお構いなしにマイペースで散歩して、社務所前から入り口の方に歩いて行きました。神社で飼育されているのかな?
Φ ポケストップがあります・・・ 中山神社造営寄付芳名録の碑、綾羅木会館、下関市川中武道館
Å ポケモン・ジムがあります・・中山神社 大鳥居、 中山神社 さざれ石 由来説明の碑
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