
山口県下関市阿弥陀寺町に建っている「赤間神宮(あかまじんぐう)」です。JR下関駅から徒歩約40分。勝應寺からだと8分位です(googleマップ経路情報より) 赤間神宮前バス停すぐです。
国道9号線沿いの大きな神宮なのですぐに分かります。2日目最後の参拝場所です。
「赤間神宮」と彫られた扁額を掲げた石鳥居をくぐって石段を登って太鼓楼の前を右に少し行った所に青緑の屋根と赤白の大きくて綺麗な水天門がたっていました。下部は漆喰塗りで、中央にアーチ型の通路を開き、上部は木造の軒と入母屋の屋根の竜宮造りの立派な門でした。
水天門の先の石段の手前の狛犬は、両方口を開けた阿形? 向き合って無く、両方前を向いていました。一般的なお座りポーズにパーマを掛けたような頭、口には玉を含み胸には鈴、筋肉隆々の体、尻尾は背中にくっついていてほぼ見えないような、かなり特徴的な姿をしてました。右側の狛犬は毬を踏み、左側の狛犬は、子供?がじゃれてるような? 踏んづけているような(^_^;)
拝殿前の狛犬は、阿型・吽型の一対で、お座りポーズですが、ライオンみたいな凛々しい顔立ちにタテガミ、前足や胸は筋肉隆々でした。
大きな社殿で奥の方にも広がっていました。一般者の参拝者が参拝するのは外拝殿と言われる社殿で、中の方をみると、手前に小さな舞台みたいな場所があり、その先が内拝殿のようです。外拝殿と内拝殿は回廊で囲まれてました。内拝殿の奥が本殿ですが、外拝殿からは、殆ど見えて無いようです。
赤間神宮 公式ホームページ
御祭神: 安德天皇
寿永四(一一八五年三月二十四日源平壇浦合戦に入水せられた御八歳なる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる。 昭和二十年七月二日戦災に全焼せるも、同四十年四月二十四日御復興を完成し、同五十年十月七日寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行。同六十年五月二日勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰き御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり。
境内の案内板より
拝殿の左側の方に授与所がありました。書置きのみでした。大連神社や紅石稲荷神社の御朱印もあるとの情報でしたが、授与所で聞いたら赤間神宮のしか無いとの事でした(;_;) 何かおかしい















安徳天皇阿弥陀寺陵




赤間神宮の入り口の石鳥居をくぐって石段を登って太鼓楼の前を、右に行ったら水天門、左に行ったら安徳天皇阿弥陀寺陵になります。昔は阿弥陀寺と言うお寺があったみたいですが、現在宮内庁により護持されているそうです。門の前までしか行けませんでした。門や瓦には、菊の御門が沢山並んでました。
鎮守八幡宮
御祭神 八幡大神 神功皇后
今から約千二百年のむかし貞観元年行教和尚が宇佐から京都の石清水へ御分霊を勧請される途次、関門の風光絶佳なる当地に日本西門の守り神として創建せられた鎮守八幡宮である。
それより鎌倉幕府を始め南北朝室町時代から江戸時代まで、大内・毛利両氏など多くの戦国大名の尊崇を集めた。
昭和二十年七月二日大東亜大戦の禍を蒙り社殿は全焼したが、養治小学校奉安殿を移築して仮本殿とし御神体安泰を期すを得たるも氏子の熱誠によって昭和二十九・ 同三十七年の両度にわたる戦災復興造営事業を中心に、本殿拝殿など、めでたく竣工、宇佐本宮の例に倣い朱色も鮮かに完成された。尓来二十年毎の式年大祭を行い社殿整備、さらに神楽の創作もおこなわれ阿弥陀寺町・みもすそ川町・ 壇の浦町・本町・宮田町・上宮田町など十五ヶ町の氏神として御神徳をあらわされ、日本国の西門の守護神として関門海峡に臨み神意愈々発揚されているものである。 境内の案内板より






国道9号線沿い、赤間神宮の石鳥居から少し右側に行った所に鳥居があり、扁額は無いですが、鳥居の前には「鎮守八幡宮」との社号標が立っていました。鳥居をくぐって真っすぐ行くと鎮守八幡宮の前に繋がっていました。赤間神宮の社殿の右隣になります。
1200年くらい前に大分の宇佐から京都の岩清水八幡宮に分霊を勧請される途中に、風光明媚な下関の地にも分霊して祀られた八幡宮だそうです。阿弥陀寺(今の赤間神宮)の境内守護の社だそうです。
大連神社・紅石稲荷神社






このエリアも赤間神宮の境内になるようですが、感覚的には隣の神社って感じです。赤間神宮の東側にある鎮守八幡宮の裏辺りから道が有り、石段の先に「神徳無偏」と書かれた扁額を掲げた神門があり、更に石段を登った先に社殿がたっていました。少し離れて別エリアみたいな場所にあるので、赤間神宮は参拝者が多かったですが、こちらは急に参拝者が少なくなりました。
神門前には狛犬が鎮座してますが、両方とも口を開けてるので阿形のようで、口に玉を咥え、右側は右足で毬を踏み、左側は左足で子供?をあやしてるのか?踏んずけているのか(^_^;)?。デザインはほぼ同じで、両方前を向いて左右対称な1対になっていました。(赤間神宮の石段下の狛犬を少し小さくした感じです)
神門の先、石鳥居をくぐった所に元々は手水鉢があったようですが、「害獣対策の為、当面使用中止」との貼り紙があり、鉢の上部は瓦のようなもので塞がれていました。横にはお地蔵さんと柄杓が置かれていて一見、「水かけ地蔵?」って感じでした。
御祭神: 天照皇大神、大国主大神、明治天皇、靖国神
明治三十九年十月一日、日露戰役終焉と共に満洲国の玄関口大連市総氏神として鎮座せられて以来四十星霜、昭和二十年八月大東亜大戦終結し、ソ連軍保護のもと同二十二年三月に、ご神体は神宝と共に帰国し、福岡市・筥崎宮に仮奉安、同二十八年五月に赤間神宮神苑に小祠を建立、やがて 伊勢神宮の第六十回式年遷宮に際し 御祭神の由緒により古殿一棟を賜り、さらに貝島家より邸内社社殿を拝受、造営事業を開始し神域の拡張成り、関門の風光絶佳なる此の聖地に永代 鎮座せられたり 境内の御由緒書きより
御祭神: 宇迦之御魂神
今を去る八百年前、源平の争乱起るや、平家一門は御幼帝・安徳天皇を奉じて西遷するに際し、皇城の鎮護たる京都伏見稲荷大明神を勧請し乗船、長門国壇の浦に到るや、紅石山景勝の地を撰びて鎮祭されたるを以て創建とす。
尓来御神徳は西海に光被し、御霊験またあらたかにして多くの尊崇を専らとし給うも、昭和二十年七月二日戦災に遭い、社殿を焼失、鎮守八幡宮々域内に仮殿を設けて暫時の宮居とす。
やがて源平八百年を迎えむとする昭和五十八年秋、この地を選び神殿造営の工を起すや、奉賛会長 大知順一はじめ氏子信者一丸となりて募財、昭和五十九年二月六日初午の吉辰を寿きて竣工、西遷座ならびに奉祝大祭を厳修せり。
ここにその由来を記し以て後世に伝えむと云爾。 境内の御由緒書きより
















神門から真っすぐ行くと大連神社、右に曲がった先に紅石稲荷神社への参道がありました。それぞれの鳥居、石段と続き、社殿自体は一段上の同じエリア内にありました。
社殿のあるエリアでは、左から、祖霊殿、大連神社、宮司社、産霊社、大東塾十四烈士之碑、石碑、紅石稲荷神社と言った並びになっていました。
大連神社は、元々は、日清戦争後に日本領になっていた中国の大連にあった神社だそうで、第二次世界大戦後、御神体や神宝を持ち帰り、伊勢神宮から古殿一棟を賜り造営された神社だそうです。
紅石稲荷神社は、800年前の源平合戦の頃に平家が京都の伏見稲荷大明神を勧請したのが始まりだそうで五穀豊穣と産業発展、商売繁盛の神様として信仰されています。稲荷神社っぽい赤白の社殿ですが、社殿の前面は全体に緑色のチェック模様があり、ちょっと見慣れない印象でした。
Φ ポケストップがあります・・・・ 赤間神宮狛犬 阿形、赤間神宮境内案内図、鎮守八幡宮
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