
山口県萩市椿に建っている「金谷神社(かなやじんじゃ)」です。JR萩駅から徒歩約7分。大照院からだと16分位です(googleマップ経路情報より)
町中の平地て、山口県道64号線沿いに入り口の石鳥居が立っていました。扁額はありませんでしたが、額束の部分にかなり薄れてましたが、たぶん「天満宮」と彫られていました。石鳥居の前に立つと参道に沿って、神橋、随身門、中雀門?、拝殿と一直線に見えて、合わせ鏡を覗いたように門や柱が無限に続いているかのように見えました(少しオーバーかも(^^;))
昔は城下町の表玄関の大木戸があった所で、城下町に出入りする人や物を管理していたそうです。
石鳥居の右側には、「郷社」の石柱、大きな社号標の石柱や石灯篭が立っていました。石鳥居の後ろには低い玉垣に梅の形をした石が挟められていました。
神社の境内の右側の方には庭園もあり、その先にも、公園か?保育所の遊び場みたいなエリアなので境内が広く感じられました。
社号標、御朱印などは「金谷神社」でしたが、梅の形の石、御神牛等々、御由緒書き、扁額等には「天満宮」となっていました。御由緒書きでは、福岡の大宰府から勧請されたとの事ですから「金谷天満宮」が正しいのかもしれません。
長門国萩金谷天満宮は、社伝によると鎌倉時代文治二年(一一八六) 七月、長門守護職佐々木四郎高綱が大宰府より勧請したと言われてい る。
しかし当社が早く焼失したため、室町時代ごろのありさまは明らかでない。
戦国時代になると、毛利氏は当社「長州第三宮天満宮」と称して庇護し、天正十一年(一五八三) の社殿造営に際して、毛利輝元は造営領の安堵を行っている。当社は奥金谷にあったが、享保五年(一七二〇) 藩主毛利吉元の時、現在地に遷宮さ れた。
秋の祭礼には、平安古の手廻備行列・古萩町の大名行列・唐樋町の御神幣・川島の聖・河添と御許町の子供神輿・椿町の踊り車等による奉納がきらびやかに繰り出し、萩の二大祭りとして賑わっている。
祭りの終わりにはご神体を御網代車に乗せた「御神幸」が古天神まで 古式にのっとり厳かにとりおこ なわれている。
境内の案内板より
拝殿前のお賽銭箱の横に書置きの御朱印が置かれていました
境内















入ってすぐ右側には、今は使われていないみたいですが、井戸(かな?)から直接水を流すような手水舎(鉢)がありました。
参道の左側、手水舎の向かいには、立派なお堂のような建物がありました。建物の右側に古い写真が何枚か貼られてましたが、案内板も扁額等も無く、何なのかは不明でした。(ネット上で調べても何も見つかりませんでした)
参道の途中には、大きな赤い随身門が立っていました。門の左右の柱の部分には矢大臣神像と左大臣神像が鎮座していました。木製かな? ガラス戸とかは無くそのまま置かれていますが、手前の柵が高いのでちょっと見辛いです。
門の天井部分には、色々な絵パネルがはめられていました。
門の大きさと比べると小さくなりますが、各所に模様や彫り物が配置されていました。殆ど目立ちませんが、一階部分の屋根の正面には、毛利氏の家紋「一文字に三つ星」が見えました。
中雀門?から社殿












(中雀門で良いか?分かりませんが、此処では「中雀門」と呼ばせて頂きます)
中雀門前には、ちょっと古そうな狛犬。吽型は角付きで、申し訳程度の小さな球を踏んでいました。
拝殿前の狛犬は、基本的なお座り姿ですが、ちょっと角ばった感じで、こちらもちょっと変色してました。
中雀門からは左右に廻廊が伸びていて拝殿の横まで繋がっていました。回廊には奉納額が沢山飾られていました。
拝殿の扁額は、木を縦に切ってその形を生かしたような独特の形で雰囲気を醸し出していました。正直、書かれた文字は読めませんでしたが、無理やり当てはめると「天満宮」かな?
随身門だけでなく中雀門、拝殿にも、小さいですが毛利氏の家紋「一文字に三つ星」が見えました。
Φ ポケストップがあります・・・・ 撫牛
Å ポケモン・ジムがあります・・・Kanaya Shrine 金谷天満宮
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