広島県呉市宮原5丁目にある「歴史の見える丘」です。「呉の散歩道」で4番目と5番目の目的地になります。「旧呉海軍工廠礎石記念塔」もこのエリア内にあるので一緒にします。「海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)」から徒歩15分から20分位です。
国道487号線に沿った一段高い細長いエリアで記念碑が立ち並んでいます。海側に目を向けると、目の前にドックがあり、その先に呉港や呉の町まで見渡す事ができます。
旧呉海軍工廠礎石記念塔
この記念塔は旧呉海軍工廠の面影をしのぶよすがとして残存した工廠礎石を集め此所「歴史の見える丘」の一角に建立したものである。
レンガは旧呉鎮守府開庁当時の庁舎建材、緑石は堺川にかかる二重橋に使用されていたみかげ石構造の踏石。
頭部にあるカモメのブロンズ像は日本彫塑会会員般若純一郎氏の作になるものでである。
記念碑のプレートより
造船船渠記念碑
この記念碑は、呉海軍工廠内に明治44年(1911)3月完成以来、昭和46年(1971)11月その幕を閉じるまでの間、数々の船舶を生み出してきた造船船渠(せんきょ)を記念して、造船船渠の石をそのまま用い、渠底に降りるための階段部分を再現したものです。 石碑のプレートより
「船渠」とは、「船舶を建造または修繕するために入れる構築物」所謂、「ドック」のことらしいです。
戦艦大和の塔
戦艦ヤマトは20世紀における世界最大最強の戦艦であって、しかも日本人の手で設計し、呉海軍工廠において、呉市民の力で建造された誇り高き技術の技術の結晶であったとの見地から、これを生んだ呉工廠の跡を一望できるここ宮原の高台に、全国六万有志の協賛を得て記念塔を建設し、もって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、また、その悲愴な最期を偲んでこれが霊を慰め永くその栄誉を顕彰しようとするものである。 プレート板より抜粋
(文字が小さいので誤字脱字があるかもしれません。すいません)
渡辺直己歌碑
『ほそぼそと虧けたる月に対ひつつ 戦は竟に寂しきものか』
渡辺直己は明治41年6月4日 呉市郷町145番地に出生 昭和12年日支事変に応召 同14年8月21日 天津において戦士 32歳
直己は呉市立高等女学校教諭の時、短歌のアララギに入会。中国大陸に在っては戦う人間の苦悩を描いた秀歌を発表、戦争歌人として高い評価を得た。
よって、ここに本人死去の50周忌に際しヒューマニズムを貫いた、短いその生涯と作品業績を惜しみ、歌人、教え子、有縁の者ら有志がこれを建立した。 プレート板より
正岡子規句碑
『呉かあらぬ 春の裾山灯をともす』
この句は、明治28年3月9日に、友人古嶋一雄が海軍従軍記者として、軍艦松島に乗り組んで出征するのを見送るため、呉を訪れた正岡子規が詠んだ3句のうちの1句です。 案内板より
澤原為綱翁之像
この記念碑は、昭和8年澤原為綱翁遺徳顕彰会により、二河公園の一角に建てられていた銅像の台座の一部を移転したもので、銅像は第二次世界大戦中供出された。
このたび、広島呉道路建設によるスポーツ会館移転にともない、長く翁の業績を伝えるため、この地「歴史の見える丘」へ建立したものである。 石碑のプレートより
Φ ポケストップがあります・・・・
Å ポケモン・ジムがあります・・・戦艦大和の塔 、正岡子規句碑