山口県山口市大殿大路119に建っている「瑞雲山 龍福寺(りゅうふくじ)」です。JR上山口駅から徒歩約11分。JR山口駅から22分位。築山神社からだと7分位です。(googleマップ経路情報より)
八坂神社や築山神社のエリアのすぐ南側のエリアです。ナビだと徒歩で7分位でちょっと回り道になっていますが、八坂神社大鳥居の前の駐車場の横を抜ける近道があります。
案内板によると本堂は「平成17年から平成23年にかけて大規模な保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿にもどされました。」とあり、新しく綺麗な建物でした。ただ、下の方は前面ガラス戸張りで現代風な建物に見えました。本堂の正面は、石段の所から入れないようになっていて、内部は見えなかったのですが、室町時代の姿に戻されたのは内部なのかな?
本堂の左側に大内氏龍福寺史料館がありました。龍福寺に伝わる寺宝を中心に展示しているそうですが、実質は大内氏の史料館のようです。入口の左側に「大内義興公「馬上展望」」像が立っていました。勢いを感じさせ迫力と趣のある像でした。史料館は無人のようですが、入場料200円(2023年9月現在) 私が入口前まで行った時、「閉館中」となっていたので、入館せずに帰りましたが、後で写真をよく見ると「開館中」になっていてショック。(開と閉、門の中の縦線が離れているかくっついているかの違いで正反対の意味合い。見間違えるとは、視力が落ちてきたか(:_:) )
山門くぐってすぐの左側の場所に「宝現霊社」のお社が建っていました。先に参拝してきた築山神社に移されたとの説明を見て来たばかりだったので、「えっ!」って感じでした。龍福寺にも残されていたんですね。右側には「しあわせのかね」と言う鐘楼がありました。手で打つこともできるし、1日3回自動的に撞かれるそうです。
参道の左側には、宝現霊社、子育・水子地蔵、豊後岩、大内義隆供養塔、龍福寺史料館など見所が沢山ありました。右側は、しあわせのかね、大黒様像がある位で、後はお寺の建物の裏に公園や庭園と言った構造になっていました。山門の前にも、大殿大路まで100m近くも参道が続いていました。かなり広い境内でした。
龍福寺は、もとは白石(山口市白石)の地にありましたが、天文二十年(一五五一)に兵火にかかり、そのままになっていたものを、弘治三年(一五五七)毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うためにこの地に再興しました。
明治十四年(一八八一)、龍福寺は火災に遭い、ほとんどの建物が焼失しました。
そのため、吉敷郡大内村(現在の山口市大内御堀)の、大内氏の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗の龍福寺本堂へ改造しました。
この本堂は、文明十一年(一四七九)に建立されたと言われており、内部の、大虹梁、板蟇股、組物などは室町時代の建築の特徴をよく表しています。
移築後、約百年の月日が経ち、大規模な修繕が必要となったことから、平成十七年から平成二三年にかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿へ戻されました。
本堂は、桁行五間、梁間五間の入母屋造で、屋根は桧皮葺、正面には蔀戸があります。なかでも内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは、大変珍しいものです。
境内の案内板より
本堂の右側に授与所のような受付の窓口がありました。私が参拝した時は、丁度、お寺の方が外に出ていたので、窓口の近くに行くと声を掛けて下さり、すぐに対応して下さいました。
しあわせのかね
『この梵鐘は大内義隆卿が享録五年(一五三三)に九州芦屋の名工大江宣秀に作らせた国の重要文化財「興隆寺梵鐘」を縮小、複製したものです。鐘楼堂は総欅造り入母屋本瓦葺きで、現代の名建築です。平成五年春完成後は、毎日、「暁鐘」「日中鐘」「昏鐘」一日三回大内文化の音を鳴らしております。ご参詣の皆様も世界の平和、地域の安穏、ご家庭のしあわせを願って自由に撞いて下さい。』
境内の案内板より
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案内板がありますが、かなり擦り切れていて読み難い状態です。他の方の写真をみると、読みやすいように張り紙がされていたようですが、私が参拝した時は、無くなっていました。
毎日、「暁鐘」「日中鐘」「昏鐘」1日3回、自動で鐘が撞かれるようです。(龍福寺では 6:00,12:00,18:00)
1人1回は、手で撞く事も可能です。
宝現霊社
『宝現霊社は大内氏の祖琳聖太子から、三十一代の大内義隆に至る大内氏歴代の当主の神霊をまつる祀で龍福寺の鎮守としてここに建立されている。
この社殿は最初大内教弘が築山館に創建したのが始まりで敬神崇祖の念の篤い大内氏歴代の当主によって、その各忌日には祭祀がなされてきた。
江戸時代には毛利氏により祭祀がなされていたが、明治になって一時、多々良神社と称したこともある。
現在の社殿は今から二百五十年余り前の江戸時代中頃の建築で両側に大内氏の家紋大内菱が付いている。』
境内の案内板より
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築山神社の案内板では、”宝現霊社は、龍福寺から築山神社へ移された” ような説明があったのですが、龍福寺には築山神社の起源となった宝現霊社のお社が残ってました。
豊後岩の由来
『大内氏は歴代政庁をこの地に置き、西日本に覇をはっていたが、後には防・長・芸・備、石豊・筑の七か国の守護を兼ね、その富と権力は天下に並ぶべきものがなかった。
当時世の中は兵乱にあけくれていたが、山口の町は平和を保っていたので、戦乱の都をさけて、この山口に来る公卿・文人が多くあり、いわゆる西の都の繁栄があった。
大内氏はこれら来訪の客をもてなすため、邸前に宏大壮麗な築庭をした。
そこには流木があり、また当時珍らしい蘇鉄が植えられたりしたが、使用した岩は全部豊後の国から舟でもってきたものであった。
しかしこれらの岩は、豊後の国を恋しがって雨の夜は「豊後に帰りたい」と いって泣いていたという。
そのような立派な庭も大内氏の滅亡後は荒廃して、わずか豊後岩だけがここに残って、往時の栄えの跡をしのばせている。』
境内の案内板より
Φ ポケストップがあります・・・・ 石組かまど、大内義興公馬上展望像、龍福寺西門、大殿公園
Å ポケモン・ジムがあります・・・龍福寺本堂、龍福寺の鐘楼