散歩道: 伊勢神社(岡山県岡山市北区番町2)

 岡山県岡山市北区番町2 に建っている「伊勢神社(いせじんじゃ)」です。JR岡山駅から徒歩約20分。長泉寺からなら6分位です(googleマップ経路情報より) 
 何処から向かうかでナビの案内が変りますが、入り口は東側の細い路地からになります。(ちょっと分かり難いです) 入口の前辺りや入ってすぐの辺りが工事中で動き難かったです。
 拝殿や本殿の後ろ辺りが駐車場になっているようで、入り口の門や石鳥居の直ぐ横辺りにも自動車が通るので注意が必要です。

 「崇神天皇」の時代には存在していたとの事なので、紀元前から続く神社のようです。現在の伊勢神宮(三重県伊勢市)に御鎮座されている「天照大御神」が伊勢神宮に落ち着く前に御鎮座されていたことがあるそうで、格式が高い神社のようです。
 詳しい神社略記の説明板がありますが、この中に『「延喜式神名帳」(西暦九二七十撰上)』との記載が。何か変(^_^;) と思いましたが、『「延喜式」という格式(律令の施行細則)を纏めた法典で50巻ある中の9巻と10巻が神名帳の項目のようで、その10巻目に書かれてます』的な意味のようです。「西暦九二七十撰上」は「西暦927」年、「10」巻目、撰上(書き表す)と区切るようです。

伊勢神社 御由緒

 伊勢神社(通称 伊勢宮)に天照大御神が御鎮座になりました起源は「倭姫命世記」という書によりますと、
 「第十代崇神天皇即位6年9月、「天照大御神」及「草薙の剣」を朝廷より倭国笠縫邑に遷し、皇女豊鋤入姫命をして斎奉りける。」とあります。
 それまで天照大御神は天皇の大殿の内にお祀りされていましたが、崇神天皇はその神勢を畏れて、いわゆる「同床共殿」に耐えがたく思われ、はじめて大殿の内より出し奉って皇女豊鋤入姫命 にその御神霊を託し笠縫邑にお遷ししてお祀り申し上げたという意味です。
 天照大御神が、現在の伊勢神宮(三重県伊勢市)の地に御鎮座になります迄には、89年間にわたり諸国を次々に御遷宮なさいました。
 倭国笠縫邑に34年間、丹波国吉佐宮に4年間、倭国伊豆加志本宮に8年間、木国(紀伊)奈久佐濱宮に3年間、吉備国名方濱宮に4年間、倭国三輪の御室嶺上宮に2年間御鎮座になりました。
 その後、倭姫命に託され11箇所の宮々を経て垂仁天皇26年に伊勢国度會の宮(現在の伊勢神宮)に御鎮座になりました。
 即ち、豊鋤入姫命の御遷幸のなか「天照大御神」と「草薙の剣」が吉備国名方濱宮に4年間御鎮座になりましたのがこの伊勢神社であり、伊勢神宮に御鎮座になる38年前にお祀りされたことになります。
 爾来、伊勢神宮の元宮として祭祀を続けここに2千有余年となる備前で最も古い社歴の神社です。

 平安時代には「延喜式神名帳」(西暦九二七十撰上)に記載されたいわゆる「式内社」の一社として栄え、室町時代まで備前岡山の総氏神として篤く崇敬されました。
 安土桃山時代から江戸時代にかけては、宇喜多氏や池田氏より尊崇され特に池田家からは池田家側近崇敬社として寛永年間から明治維新に至る迄、備前藩寺社領としては最高の300石を賜り、伊勢宮社務職を以って備前神職総頭の職を拝命されておりました。
 従って池田家の祭事一切は伊勢宮社務職の手によって執り行われ現在も続いております。
 又、伊勢神社には300年前から「御神事」という祭事が執り行われておりました。
 この「御神事」は、文禄元年、宇喜多秀家が豊臣秀吉の命を受け「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲冑に身を固め、藩主以下総勢行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち伊勢神社に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀のなかにとり入れて行われたのが起源です。
 伊勢神社の氏子は武士と町人が半々であったため「御神事」は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町の4町内が順番に奉仕していました。
 又、備前太鼓唄、備前獅子舞は伊勢神社氏子より発祥し、現在も10月16日、17日の両日、伊勢神社拝殿に於て正調の獅子舞を奉納しております。
                                 境内の案内板より

 拝殿の右側の社務所をお訪ねして書置きの御朱印を頂きました。

   御朱印のページへ


Φ ポケストップがあります・・・・ 伊勢神社
Å ポケモン・ジムがあります・・・

  

  長泉寺 ⇐ (前)   ::   (次) ⇒ 瑞雲寺

/* クリッカブル用コード */