散歩道: 多家神社(広島県安芸郡府中町宮の町)

 広島県安芸郡府中町宮の町にある「多家神社(たけじんじゃ)」です。JR天神川駅から徒歩約21分、出雲大社広島分祠からなら33分位です。(googleマップ経路情報より)
 出雲大社広島分祠から向かうと途中、工事中の所が多く、迂回を繰り返すうちにかなり大回りになってしまいました。その分速足にしたので、写真の撮影時間から見ると所要は37分でした。
 googleマップナビだと、例によって裏参道に案内されます。表参道は社殿の西側になります。
ずっと川沿いに来て県道152号と272号が交わる所から南側に少し入ると玉垣や標柱が見えてきます。
 北側川沿いの「えの宮公園」から繋がっているので、公園から入った方が分かり易いかも知れません。

 一の鳥居をくぐると目の前には長くて急な石段が迫ってきます。石段を登った先の境内は広く、二の鳥居をくぐり、神楽殿、神輿蔵、宝蔵の前を通った奥に拝殿と本殿が建っていました。標石の前に狛犬、標石過ぎると対の神馬像が立っていました。
 入口辺りと拝殿前に2組の狛犬が立っていましたが、両方ともお座り型で落ち着いた感じでした。神馬像は左右向き合ってましたが、特に「阿吽」とかの違いは無さそうでした。

 拝殿の左側には無人の授与所がありました。カウンターの所に御朱印に関するお知らせもありました。「希望者は社務所まで。基本は、書置きタイプ、直書き希望の場合は一度、御朱印帳を預かり後日引き渡し」とのことでした。
 
 社務所の右前に神武天皇が立ち寄ったという「神武天皇東征御留蹕霊地」石碑、慰霊碑、みたま椿、珍しい所では、身長測定器みたいな「おもいで石」等々、見所も沢山ありました。
 また、多家神社から南東方向へ徒歩15分位の所に、現在は多家神社に合祀された松崎八幡宮跡があり、神武天皇縁の腰掛石や顕影碑などがるようです。(後で知ったので、今回は行ってません)

多家神社 御由緒

 主祭神 : 神武天皇(神伊倭伊波礼毘古尊) 初代天皇
       安芸津彦命(安芸国の開祖神)

 相殿神 : 神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)
       応神天皇(15代天皇)

       大己貴命(大国主神)
 摂末社 : 貴船神社(高竜神、別雷神、大山津見神)
 御由緒 :
 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。
『古事記(712年完成)』に阿岐国[安芸国](あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命[神武天皇](かんやまといわれびとのみこと)が七年坐すとあり。『日本書紀(720年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとある。
 この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。
 平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の1つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社[厳島神社](いつきしまじんじゃ)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。
当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。
 中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。
そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。
 明治7年県社となった。その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀した。
大正4年(1915)9月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。
 なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。

                                  境内の説明板より

 表参道、一の鳥居の右側奥の方に社務所の建物がありました。インターフォン押して種類と枚数を伝えると、宮司さん(かな?)が書置きタイプの御朱印に日付を手書きして持って来て下さいました。多家神社と埃宮の2種類がありました。

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