
広島県山県郡北広島町志路原に建っている「浄土真宗本願寺派 泰平山 浄土寺(じょうどじ)」です。
今回は、特別なバスツアーで行きました。
自動車なら、中国自動車道・千代田インターから15分位。
公共交通機関だと、千代田インターからホープバス・豊平千代田線か金城線で、上石口バス停から徒歩3分位です。今回は貸し切りのバスツアーだったので、公共交通機関は実際には使ってないのでネット検索の結果です。公共交通機関利用だと、乗り継ぎとかが、ちょっと難しそうです(^_^;)
茅葺屋根の山門がたってます。2階部分に鐘が見えるので鐘楼門のようです。400年前に建てられたそうで、外側から見ると歴史を感じさせる威風堂々とした建物です。内側(本堂側)から見ると屋根に苔が生えてて、趣を感じます。ただ、屋根にとって苔は難敵になるようで、傷みが酷く、来年2026年度に50年ぶりに改修されるそうです。
山門くぐると正面に本堂。今回はツアーだったので、本堂の中に入らせて頂き、浄土真宗独特の節談説教と言う話し方で、浄土真宗やお寺の歴史等を伺いました。尾道市にある浄土寺のお坊さんから始まったようで真言宗から途中で浄土真宗に改宗されたそうです。現在のご住職が浄土真宗17代目で娘さんが僧侶になられて18代目として控えてました(お家安泰ですね(^_^) )
(個人で行く場合は事前に連絡が必要かも)
本堂前の廊下?の左側に戦争の為に提供された鐘がそのままの姿で53年振りに帰ってきたという「平和を希うつり鐘」が置かれていました。戦後、岐阜のお寺で47年間使用されていたもので縁あって浄土寺に帰って来たそうです。実際に手で鐘付き棒を持って打つことができます。この辺りから山門の方を見ると手前の境内の木々越しに山門、屋根の苔等がとても良い趣を醸し出してました。
境内には、木々に隠れるように沢山の石像がたっていました。本堂右前辺りには恵比須様、左前辺りにはザルから小判を落としている像とザルで小判を受けている像(恵比須顔の大黒様?)、本堂の裏の方には布袋様と弁天様? がいらっしゃいました。奥様の話では、前住職がお好きで境内に色々な像を配置していたそうです。本堂の裏の方も裏山や墓地、川沿いの方にも行けてかなり広いです。
11月中旬と言う事で、境内の手水鉢や親鸞聖人像の辺りは黄色や赤に綺麗に紅葉してました。
この辺りは天然記念物のオオサンショウウオの生息地だそうで、お寺の前の国道433号線を渡ってすぐの所に飼育小屋があり、生きたオオサンショウウオを見れました。浄土寺のご住職が、安佐動物園によるオオサンショウウオの研究の手助けをした関係で、これもツアーのお陰で見れました。通常は見られないそうです。
<<元徳年間(1329-1331) 尾道浄土寺在籍の僧了恩の開祖>>
元徳の昔、志路原三本松に妖怪ありて荒れ狂い、人々は恐れ不安の暮らしをしていた。この折、了恩という高僧来りて一千日間の読経をすれば、鎮まり無事平穏な生活にもどった。人々は高徳に帰依し、正慶元年(1332)堂宇を建立し住はしめた。
僧了恩は備後国尾道浄土寺の僧侶で、29人の比丘衆とともに同寺に多宝塔を建て前住職釈定証法印の三回忌の追福供養をなし、出でて諸国行脚の途上、ここに寺を開基したと伝えられる。
慶長年間(1596-1615) 八代覚善の時、福島正則により寺禄並びに堂宇を破却、僧侶は追放された。元和2年(1616)廃寺となった真言宗の正願寺、伝浄寺、万徳院、東仙寺、海翁寺、浄土寺の六ケ寺を合併し一ケ寺の再建を許可、浄土寺を称号させた。
九代道善(市木浄泉寺より入寺)のとき、真宗に改宗(芸藩通志には開基)し今日にいたる。
玄住職は真言宗開基より二十五代、真宗改宗十七代である。 令和5年10月
山門前の案内板より
御朱印はありません。
茅葺屋根の山門

元和年間(1615年から1624年)に建立されたと言われている茅葺屋根の珍しい山門(鐘楼門)です。本堂側から見ると苔とかが生えてて、趣を出していました。ただ、茅葺屋根にとっては苔は敵で、屋根が腐ったり傷む元になるそうで、来年2026年に50年ぶりに改修するそうです。















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