山口県山口市白石3に建っている「圓通山 普門寺(ふもんじ)」です。JR山口駅から徒歩約25分。木戸神社からだと14分位です。(googleマップ経路情報より)
周防国三十三観音霊場 第31番の札所で、臨済宗のお寺です。
普門寺も国道9号線に沿った場所にあるので、木戸神社からだと分かり易いと思います。
2日目は、最初の木戸神社の御朱印は別の所で頂くので、2社目の普門寺に9時過ぎに着く計算だったのですが、ちょっと早く8時45分位に到着しました。御朱印をお願いするには、早すぎるので、まずは、裏山の大内弘直公の墓所に行ってみました。
多分、5分も掛かって無いと思うのですが、少し山道を登ります。山道の途中、4,5カ所、蜘蛛の巣で道が塞がれている場所がありました。
当寺は鴻ノ峰山麓東南側にあり、山号を圓通山と号し、御本尊は十一面観世音菩薩である。臨済宗東福寺派に属する。
古くはこの地に大内正恒が創建した寺があったが、建武三年・延元元年(一三三六年)に大内弘直が再建し、その菩提寺となった。大内義隆の時、勅願寺として重建されたが、天文二十年(一五五一年)陶氏の兵乱により堂宇が焼失した。
天正年間(一五七三年~ 一五九二年)に毛利輝元の時、中興開山惟松圓融禅師(常栄寺三世)が再建し、現在に至る。
また、室町時代の初期、大内弘世が西国霊場を模して勧請した周防国三十三観音霊場の第三十一番霊場である。
幕末の文久三年(一八六三年)四月、萩の藩府が山口に移り諸般が改革された。この時、大村益次郎(長州藩の軍事指導者、陸軍の創立者。山口鋳銭司の出身。一八二五年〜 一八六九年)は藩命により江戸から帰山し、山口明倫館の改組に当たった。
さらに大村益次郎は、この普門寺境内の観音堂を宿舎とし、急務となった士官養成の為、歩兵・騎兵・砲兵の三兵学を教授した。当時これを普門寺塾、三兵塾などと称していた。現在はこの観音堂だけが、当時の建物として残っている。
当寺にある不動明王立像は、木喰が寛政九年(一七九七年)に造立した像である。この像は、平成十八年、東京国立博物館で開催された特別展「仏像一木にこめられた祈り」展に出品された。
普門寺で頂いた御由緒書きより
本堂の左側の庫裏をお訪ねしました。まだ9時を少し過ぎた位の早い時間帯でしたが、丁寧に直書きして下さいました。
大内弘直公の墓所です。観音堂の裏から一般の墓地に向かい、更に右側の山道をジグザグに少し登った先の石段の上に立てられていました。運が悪いと、途中、何回か蜘蛛の巣を払わなければすすめません(^_^;)
本堂の右前に青銅製?の観音像が立っていましたが、右腕がありませんでした。何か謂れでもあるのかとも思いましたが、説明等はありませんでした。
藩命により江戸から長州に帰国した大村益次郎が、山口明倫館で兵学校教授役となり西洋兵学の講義した際の宿舎にしたのが、普門寺の観音堂だったそうです。また、観音堂で私塾を開いて、歩兵・騎兵・砲兵の三兵学を教授していたそうで、当時は、普門寺塾や三兵塾と言われていたそうです。
Φ ポケストップがあります・・・・ 普門寺本堂
Å ポケモン・ジムがあります・・・普門寺の門