散歩道: 薬師寺(広島県大竹市元町4)

 広島県大竹市元町4 にある「神楽山 薬師寺(やくしじ)」です。JR大竹駅から徒歩約31分。光妙院からなら11分くらいです((googleマップ経路情報より)  
 小瀬川から道路と公園を挟んで建っていました。薬師寺のすぐ裏からは山場という場所でした。
 広島新四国八十八ヶ所霊場 第四番札所で真言宗のお寺です。
 
 公園横の参道から山門くぐると左側に曲がって行った先に本堂らしきお堂が2つ建っていました。正面が本堂(薬師堂)、本堂の右前が大師堂でした。水子地蔵、日限地蔵等境内にはお地蔵様を祀った地蔵堂も多く、それぞれに説明板も付けられていました。
 本堂の左前辺りに「宝篋印陀羅尼」を納めた供養塔「宝篋印塔」が建っていました。
 今回は行きませんでしたが、境内のすぐ右側から山になっていて、登って行くと「神楽山薬師寺八十八ヶ所巡拝霊場」や「浅生塚」等の史蹟なども多くあるようです。

薬師寺 御縁起

薬師堂(本堂) 本尊:薬師瑠璃光如来
 お寺の開基は詳(つまび)らかではありませんが、至徳(しとく)年中(1384-1387)既に伽藍ヶ原・香盤毘沙門畑経塚に西福寺ありとあります。本尊の薬師瑠璃光如来は、護摩堂に祀られていたもので、行基菩薩(668-749)の作と伝えられ一樹をもって三体を刻み、上部一体を一畑寺(現一畑薬師)、中部一体は西福寺(元薬師寺)、下部の一体は信州の寺にと云い伝えられています。
 本尊を飾る戸帳(とちょう)の華鬘(けまん)は、大内承隆、烏帽子の櫻なりしと云われ大内氏と関わりあるお寺でした。
 その後の元和元年(1615)西福寺(現薬師寺)が毛利氏の祈願所となり、萩の龍福寺の先住・大瀧和尚が毛利氏の請により現在の地に移転開基されました。
 爾来(じらい)、参拝する人多く、就中(なかんずく)乳の出ない、少ない母親に霊験あらたかで乳薬師として名高く、本尊は秘仏で、61年毎に開帳供養が行われます。近くは、昭和57年(1982)11月14日、本堂落慶法要の折に開帳されました。

大師堂 本尊:弘法大師 脇侍(右):波切不動明王 (左)三鬼大権現
 大師堂創建の時期は定かではありませんが、八十八ヶ所巡拝霊場建立時と思われます。現在の大師堂は昭和14年(1939)2月29日に再建されました。
 八十八ヶ所巡拝霊場(お山巡り)は、明治の初め頃多くの方々に佛・菩薩様の石像のご寄進を仰ぎ建立されました。
                              山門前の案内板より

 本堂前のお賽銭箱の上に御納経箱が置かれていました。

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法華塔

 本殿右の「宝篋印塔(ほうきょういんとう)をお守りする役割をもつ地蔵さんで、「宝篋印塔」建立の翌年明和9年(1772)に建立されました。
 この年、明和9年は、全国的に天候不調で、7月上旬九州に暴風雨。8月上旬東海・関東に暴風雨・洪水、そして8月下旬には中国・四国地方も荒れ狂いました。
 秋の農作物も計り知れない打撃を受けたので、人々から「明和九(めいわく)」のせいだという声が起こり、その年の11月半ばに「安永」と改めるほどでありました。
 このような時期に、大竹の人々は「宝篋印塔」や「法華塔」を懸命な願いをこめて建立したものであります。

火伏地蔵

このお地蔵さんは、この地域に火災が起こらないようにと東に向く大竹を見つめながら立っておられます。
 元町地区には1丁目と3丁目の山麓に火の神様を祀る秋葉神社があり、この地域には火災が少ないといわれています。
 台座に寛政丁巳9年(1798)8月吉日と刻まれていることから、この都市に建立されたものであります。

宝篋印塔

宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼」を納めた供養塔です。
 当寺の宝篋印塔は明和8年(1771)住職如実法師が願主となり大竹村有縁の人々によって、2世(今世と来世)の安楽を祈って建立されました。
 特に明和年間は全国的に大火・洪水が発生した上に飢餓、疫病なども発生したので、大竹村の人々は、これに歯止めをかけようと願い、大変立派な宝篋印塔を建立しました。
 大竹市域でここだけに現存する貴重な文化財で技術的にも大変優れた石造物です。
 塔の上段には、金剛界五仏を梵字で表しています。但し大日如来は宝篋印塔自体になるので、梵字は東西南北の四面仏となっています。


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