散歩道: 安芸国分寺(広島県東広島市西条町吉行)

 広島県東広島市西条町吉行にある「金嶽山 常光院 金光明四天王護国之寺」、通称「安芸国分寺(あきこくぶんじ)」です。広島新四国八十八ヶ所霊場の38番霊場で真言宗のお寺です。JR西条駅から徒歩約9分。円通寺からなら12分くらいです(googleマップ経路情報より)  円通寺から直線距離だと400mも無い位の近さですが、山陽本線の線路を渡れるところが遠いので、距離の割には結構時間が掛かりました。

 JR西条駅の東側、昔の広大な境内の跡が安芸国分寺歴史公園になっていて、その一角に現在の安芸国分寺が建っていました。
 仁王門をくぐって庭園の中の参道を真っすぐに進んでいった先に本堂が建っていました。
 元は、社会の授業で聞いたような記憶もありますが、奈良時代に聖武天候が仏教を広める為、各国に1つづつ建立した寺院の1つです。天平勝宝2年(750年)頃には様々な法会(法要)が行われていたそうです。その後、平安時代に金堂や講堂の建替え改修、16世紀中期には仁王門、江戸時代後期には護摩堂が建てらたそうです。宝暦9年(1759)の火災で多くを焼失した後、18世紀後半から19世紀にかけて再建されていたとの事です。

 現在、金堂は残って無く、金堂が建っていた場所に現在の本堂が建っています。本堂の北側にあった講堂、国師院、塔等の建物は残っていませんが、礎石や跡穴などで、有った場所が分かるようになっています。

安芸国分寺

 国分寺は、奈良時代の中頃、聖武天皇の発願によって国ごとに建立された官立の寺院です。僧寺と尼寺があり、僧寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と言います。仏教の力で災いを取り除いて国内を安定させ、人々の暮らしを守るという目的のために荘厳な寺院が建てられました。
 安芸国分寺は、天平勝宝2(750)年頃には本尊仏を安置する金堂や僧侶が修行を行う講堂が建ち、様々な法会(法要)が行われていたことが発掘調査から明らかになりました。また、少し遅れて塔や僧房が造営され、広大な境内の東側では、寺院の維持管理を行った施設(大衆院)や安芸国内の僧侶の育成や指導、法会の執行等を行った国師のための施設(国師院)も建てられました。平安時代の中頃には、塔が焼失し、僧房も建替えによって位置は変わりますが、金堂や講堂は、その後も屋根瓦の吹替えが行われているため、引き続いて建っていたと考えられます。
 中世になると、この地を治めた大内氏や毛利氏によって庇護され、伽藍も整備されたようで、仁王門(市重要文化財)は16世紀中期のものです。また、江戸時代には広島藩主浅野家の祈祷寺院として隆盛しました。江戸時代後期に建てられた護摩堂(市重要文化財)は重厚な建物で、正面向拝には浅野家の家紋(違鷹羽紋(ちがいたかのはもん)が掲げられています。宝暦9(1759)年4月の火災で多くの建物が焼失しますが、その後18世紀後半から19世紀にかけて再建が進められ、宗教法人國分寺として現在まで法灯が守り継がれています。

                             仁王門前の案内板より

 本堂に向かう参道の途中、右側に社務所の建物があります。窓口のカウンターに御納経箱が置かれていて、社務所に誰もいなくても、書置きの御朱印を頂く事ができます。

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仁王門

間口5.4m、奥行き3.1m、典型的な八脚門。16世紀中期の建築と推測されています。

護摩堂

広島藩主浅野家の祈祷所として建てられ、正面の向拝や来迎壁には浅野家の家紋が付いています

社務所前

社務所の窓口カウンター部分です。向かって右側の黒い箱が御納経箱です。

Φ ポケストップがあります・・・・ 境内、周辺の公園合わせて多数あり
Å ポケモン・ジムがあります・・・

  

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